創what?

詐欺カルトからの覚醒メソッドを主軸に、世の中に蔓延る「なんとなく受け入れているもの」に風穴を開けましょう。こちらは、膨大な量の刷り込みにより凝り固まった思考を解きほぐし、自分らしさを解放し自由に生きる為のブログ。

メンタル武装トレ14「中観を身につけよう・後編」

 ここまで空観と仮観の思考を見てきましたが、もう一つ重要な考え方があります。やっとこさお待たせしましたw。それは「中観」という考え方です。すべての存在は幻想であるとする空観と、相互関係性、いわゆる縁起の中における仮のゴール(役割)に注目する仮観の双方の思考をバランス良く維持している考え方と言えます。

 私が天台宗のお坊さんから聞いた話によると、大乗仏教においては、悟りに至るプロセスとしてまず空観を学んだ後、次に仮観を学び、そして最終的に中観を学ぶという順番で理解を深めるようにしているんだそうです。

 空観だけでは虚無主義なニヒル野郎に陥りやすく、仮観だけでは対立を生みやすいカルト野郎に陥るため、二つの考えを終始繰り返しながらバランスを取った考え方である中観に到達しなければならない、と釈迦はCOOLに説いているのです。釈迦はこの部分は終始一貫しているのです。どこぞの扇子持った指導者気取りの妖怪とは訳が違います。だからこそ没後数先年もの間、絶大なファンの支持を受けているんだと思うんですよね。

 この三つの考え方をきちんと理解することは仏教を知るというか、釈迦を知るには極めて重要だと思います。思想哲学と受け取るか宗教と受け取るかは人それぞれあって良いと思いますが、もう少しわかりやすく理解するために天才から聞いた一つのたとえ話を以下に挙げます。

 上映中の映画館の席に座っている状態を想像してみてください。私達は目の前の映画に臨場感を感じ、手に汗握ったり、心臓をバクバクさせたり、感動して泣いたりと、まるでそれが現実の出来事であるかのように映画を観ることができます。しかし、座席から立ってスクリーンにどんどん近づいていき、スクリーンの目の前まで来ると、さっきまで自分が現実の出来事だと思っていた映像は、単なる光の玉の集合にしか過ぎないことがわかります。つまり、現実だと思っていたものは、空だった。これが空観の立場です。

 ところが私達は「映画なんか単なる光の玉の集まりなんだから観る価値なんかねえよ」とは思いませんよね。確かに映画は光の玉の集合であるけれど、楽しませ感動を与えるという仮の役割があり、それで人はハラハラしたり、涙を流したりもするわけです。このように、物事の「仮の役割を認識すること」が仮観の立場ということになります。

 前回、仮観の立場だけしか知らないと争いを生む原因になるという話をしましたが、空観だけしか知らない状態でも、ヤバい事態に発展してしまう可能性があります。たとえば、隣の席にいる人がスマホの画面を光らせてメールしながら、ポップコーンをバリバリ音出して食って周りに迷惑をかけているとしましょう。空観の考え方しか知らない人からすれば、スクリーンに映っている映画も「空」なら、隣に座っているそのバカ野郎も「空」ということになります。そもそもすべてが幻想でしかないのなら、隣にいるその迷惑な幻は殺してしまえホトトギス、といった危険な発想につながりかねないのです。これではオウム真理教の「ポアの論理」や日蓮系カルトの「毒鼓の縁(でしたっけ)」とやらで「地獄に落ちろ!」とかガチで言うのと発想が同じになってしまいます。先ほど母から聞きましたが、創価連中は未だに「打倒日顕」の呪いの唱題会をやってるようです(笑)。それ、祈りじゃなくて呪いだからな。

 仮観の考え方しか知らない人からすれば、映画を観るという自分の幸せを邪魔する隣の人間は殺す、俺が法律だ、という発想にもつながりかねません。まるで連中のようですね。つまるところ、空観も仮観も、一方だけでは「悪事を働く人間は殺しても構わない」という発想が導き出されてしまうのです。

 では、空観と仮観の両方のバランスをとる中観では、これをどう考えるのでしょうか。隣で周りに迷惑をかけながら映画を観ている人がいても、その人が横にいる彼女の手を握っていたとしたら、彼は映画に「デート」という仮の役割を見出していることになります。一方、自分は映画を観る行為に「娯楽」という仮の役割を見出しているためにここにいるとします。また、前列の人は映画監督志望のため「勉強」という仮の役割を持ってそこにいるのかも知れない。すなわち、映画そのものは確かに「空」であるものの、それに対して映画を観ている観客それぞれが仮の役割を見出して、その映画との関係を結んでいるわけです。それぞれの人間がそれぞれに全く異なる役割を見出しながら、同じ映画館で同じ映画を観ている。さらにその「仮の役割」は人の数だけ存在していて、それらに上下関係のようなものはないということもわかってきます。もし、上下関係を認めてしまうと、それは仮観だけの世界とあまり変わらず「ナチスの論理」にも通じてしまう。

 このように、空観を学び、仮観を学んだ後に、中観にたどり着くことができれば、私たちは相手の存在を認めるという視点に立つことができ、世界の見かたがとても壮大なものになっていくのです。その物事と関係を結んでいる他の物事へも目を向けるようになり、ひいては宇宙全体へと想いを広げられるようになれるからです。バカップルを見て、この野郎、幸せをお裾分けしてもらおうか、と感じるか、この野郎つば吐きかけたれ、となるのかぐらいの差が出ちゃうわけです。

 余談ですがイエス・キリストは「汝、自身を知れ」とか「汝、隣人を愛せ」と言ったとか言わなかったとか。つまりはこういうことなのではなかろうかと。釈迦やキリストといったとんでもなく高い抽象思考が出来る人は、争う考えなんか毛頭ないんだろうなぁと想像します。

 自分を洗脳できているうちはいいですが、それが解けたときには悲惨なことになるだろうし、自分の幸せを押しつけて他人を不幸にしてしまうのは悲しいことです。

 皆さんがもし私のように(笑)釈迦の言う本当の幸せを手に入れたければ、空観の視点に立ちつつ、空観だけを知るのではなく、空観から仮観を経て、釈迦が終始一貫して説き続けた「中観の境地」に到達できるように思考することが望ましいのではないかなと、感じる次第なのでございます。

 みんな特別。ヴェルタースオリジナル。以上。