創what?

詐欺カルトからの覚醒メソッドを主軸に、世の中に蔓延る「なんとなく受け入れているもの」に風穴を開けましょう。こちらは、膨大な量の刷り込みにより凝り固まった思考を解きほぐし、自分らしさを解放し自由に生きる為のブログ。

メンタル武装トレ8「因果を正しく見る」

 丸い円をイメージしてください。円の中には必ず点があります。点の定義は円の中心、(または直線が交差する場所)であり、円が存在して初めて点を定義できます。この場合、円が「因」で、点は「果」です。

 では次に、私達は円を書くときにコンパスを使います。中心に針をおいてぐるりと円を描きます。つまり点があるから円が描けるのです。この場合、点があるおかげで円が存在できるので、点が「因」で円は「果」です。おお、因果関係が逆転してしまいましたね。

 さて、ここでひとつの疑問が浮かびました。「円が先にあって、その中心として点が存在するのか」「点が先にあって、その点の周りに等距離で線を引くために円が存在するのか」 もっと単純にいえば、「円のおかげで点があるのか」「点のおかげで円があるのか」

 どちらが正しいのでしょう。答えは「どちらも正しい」だと思います。一方的な因果は存在しないという証明です。因果とは、双方向で作用する関係であることが解ると思います。

 母と子の関係のように、母は子の存在があってこそ母になり、子は母の存在があってこそ子として存在するのです。どちらが先ということでもなく、またどちらが欠けても存在しない関係です。おお、我ながらわかりやすい説明ですねぇ(笑)

 となりますと、大半の人達が刷り込まれている「時間因果」についても言及しないわけにはいきません。私は覚醒後の再覚醒(とでも言いましょう)で、この論理に目から鱗の衝撃を受けました。なので今回はそれを紹介したいと思います。

 

「過去があって現在がある」私達は因果をこのように捉えてはいないでしょうか。果たしてそうでしょうか。先ほど、一方的な因果は存在しないと書きました。「過去(因)→現在(果)」これは一方的な因果ではないでしょうか。私達は何の疑問もなく「現在の自分の状況は過去の体験の結果だ」と考えています。過去、現在、未来へ時間は流れていると思っているからです。

 例えば、「一生懸命に勉強をしたおかげで、一流大学に合格できた」

 カルトなら「一生懸命に教団に寄付したおかげで、一流大学に合格できた」になるのでしょうか。いずれにせよ、これは一方的な時間因果の解釈と言わざるを得ません。なぜなら、合格出来なかったら「勉強が足りなかった」または「信心が足りなかった」と思ったでしょう。この可能性を無視した思考だからです。

 つまり、現在の状況によって過去の解釈はまったく違ってくるのです。「一流大学に合格した」という現在があるからこそ、過去の自分に対して「一生懸命に勉強したおかげ」または「信仰のおかげ」と評価できるのです。そこに気が付いたらトレーニング開始です。

 

思考トレーニング

 人生を振り返ったとき、「過去にこうしたから、今こうなった」と思うことがいくつもあると思います。まずはそれを好きなだけ書き出してください。

 そして、この「過去→現在」という時間因果関係を逆転させて考えてみましょう。

「今○○だから、過去に△△したことが××に見えるんだ」と現在から過去を見るようにしてください。現在を「因」、過去を「果」とするのです。

 例「私は過去に、がむしゃらに仕事を頑張ったから、現在は割りと裕福な生活を送れている」この時間因果を逆転させ「私は今、割りと裕福な生活を送れているので、過去に仕事をがむしゃらに頑張ったように思えている」

 時間因果関係をひっくり返して見ることで、時間は現在から過去へと流れていることを捉えられたでしょうか。

 ということは、時間の方向なんて、どっちでも良くない?と思えた人はチャンスです。そうなんです。時間も双方向に流れている、が正解なんです。自分が勝手に関連付けているだけで、時間などあってないようなものです。過去はいくら待ってもやって来ません。こない所から未来がやってくるというのも、なんだかおかしな理屈に感じませんか。ならば、片方にだけ縛られる生き方(この場合、過去に縛られる生き方)を正しいとか絶対なんて思うのは、おかしいとは思えませんか。これはとんでもない刷り込みだと私は考えます。一体誰がそんなことを私達に刷り込んだのかと思います。ともかく、脳はその思考回路が処理が楽だからそう思っている、いや、そう思わされているに過ぎないことを知りましょう。

 

 私はこのブログで再三に渡り、未来に因を作って現在に果を作ることが可能だと言っています。むしろこちらの論理も正しいのではということを最先端科学が証明しつつあるのであります。まあ、常識などひっくり返ることもあるのでいちいち断言は出来ません。

 現在進行形で理想の自分を語ることで、理想の自分が未来から語りかけてくる。stand & fight(立て、そして頑張れ)と。どちらの自分と手を取り合うのかはあなたの意志です。エフィカシーが低いと、そういった自分の言葉ですら見逃すのです。「自分にはやれる」「きっと上手くいく」心を解き放て。こう思うことの何がいけないのでしょうか。

 訳の解らないものを信じるのと、宇宙と等価である自分自身を信じることに、何の違いがあるのでしょうか。責任の所在がどこまでも自分であるならば、信じるものが自分であることに異論はないだろうと私は考えます。よその神様である必要など全くもってないのであります。

 こういった理屈、感覚を「それも、ありだわ」と解った人が、未来を自分でデザインする方法を見つけ出し、人生を心から楽しむのもありだし、ひた向きな過去の努力が身を結ぶことによって、心から達成感を味わうのもありでしょう。結果的にそれらを楽しめたなら、価値的にはどちらも同じなのではないでしょうか。イエローモンキーの吉井さんはこう歌います「永遠(とわ)なんて一秒で決まる」と。

 ゴールに至るまでの道のりは険しいかもしれない。しかし、スーパープレイも客にとっては見所でしょうし、PK戦ばかりじゃ飽きるでしょうに。難しいからこそ楽しい。人生には苦難すら笑いに変える強さが必要なのだと思います。

 その為にまずは、自分の常識を疑いましょう。そして知識を蓄えましょう。何より、胸を張って生きましょう。ここはその為のブログ。私はブログを始めた当初から、これしか言っていないのです。以上。